源珍僧都蕎麦供養恵比寿天勧進伝
(げんしんそうづ そばくよう えびすてん かんじんでん)
源珍(げんしん)は、寛正六年(1455)に生まれ二十五歳で高野山に入山した。大永元年(1521)大火による諸堂焼失にあい、その復興勧進のため薬師如来を携え、弘治三年(1557)九十三歳で当山に没するまで各地を行脚(あんぎゃ)した。
全国行脚の途中、山中(地方・場所は不明)で脚気(かっけ)による歩行困難に陥った際、山人より恵比寿天像と蕎麦粉の寄進を受けた。渓流にて蕎麦を練って食しながら、恵比寿天を二十一日間礼拝供養した。やがて脚気が癒えた頃、不思議なことに蕎麦粉を練る渓水の中に砂金を見いだした。
行脚を再開した源珍は、飢饉を救うべく荒れた土地でもよく栽培できる作物として蕎麦を勧めた。また、蕎麦の流通をはかるためか、商人に「蕎麦を食するものは命長く、脚気に病めるものは癒え、商人は蕎麦を供えて恵比寿天を礼拝し、その徳を身に纏(まと)えば、商(あきな)い繁盛す。晦日(みそか)に蕎麦を食し掛取(かけとり:売り掛け金の回収)に赴けば、掛け銭意のごとく集まる。恵比寿天の福徳無量(ふくとくむりょう)なり。」と唱え、恵比寿天に蕎麦を供えて礼拝することを勧めた。
(注)源珍の生きた室町時代は折しも、蕎麦食が急激に広まり始める時期で、蕎麦練り(当時は現在のような蕎麦切りではなく、そば粉を練って食した。)は伍穀断ち(ごこくだち:米・麦・粟・豆・黍または稗の五種類の穀物を口にしない)の修行の際、伍穀に属さない栄養価のある修行食として、僧にとって重要であったと思われる。また、飢饉の多い地域においては、蕎麦は年貢の対象とならず、小作人も借りた田の脇で自由に作ることができることから、封建社会の農民にとっては非常に重要な救荒作物であったようだ。