医王寺の沿革

当山の沿革
 当山は山号を薬王山、院号を瑠璃光院、そして寺号を医王寺と称する。現在の宗旨は、真言宗豊山派。本山は奈良県桜井市の『長谷寺』。建立は応永十四年(1407)で、仁和寺の観見(かんけん)によるという伝がある。本尊は薬師如来。当時流行した赤目病平癒の祈願所として建立された旨の当山二十五世博道による覚え書きがある。
 建立後間もなく、小田原の北條氏と安房の里見氏が利根川(現在の江戸川放水路)を挟んで対峙し、当山は北條方の陣屋として使用されたため、什物の大部分が失われたが、天文七年(室町戦国時代)源珍(げんしん)により中興された。しかし、源珍没後はふたたび長期にわたって無住(住職のいない空き寺)となった期間が多かったため、多くの資料が散逸した。
 中興祖源珍は、当山に恵比寿天を由来した人物で、昭和十一年蕎麦地蔵尊像として二十四世隆道により境内に祀られた。彼の蕎麦供養勧進伝より、戦前から昭和四十年代にかけて、東京都麺類共同組合及び東京都麺業連合会などの蕎麦店を中心とした組合から篤い信仰を受け、正月や地蔵縁日には、医王寺近隣の人々のために、無料で蕎麦のふるまいが盛んに行われていた。蕎麦店が講元となる「えびす講」ができ、護摩祈願の団体参拝で頻繁に当山を訪れた。昭和十九年、戦災により本堂が焼失した際にも、同組合らの協賛により復興した。
 土地の古老に取材したところ、近世の医王寺は、現在の料亭「柴又川甚」近くの江戸川放水路流水上の地点とおぼしき場所に存在していたらしい。江戸川放水路の決壊による堤防再建工事で現在地への移転を余儀なくされたとのことである。明治、大正までは、中州のごとき地形が芝草で覆われた寺で、まさに柴又と呼ぶにふさわしい景観であったそうだ。田園地帯でもあった当地はまた、「武蔵風土記」、「下総風土記」を繙(ひもと)くと、寺領の水田から米を産出していた記録がある。それらの米は、高木屋(現在「柴又帝釈天」門前)が差配(さはい)していたとのことである。敗戦後、占領軍の農地解放政策によりその寺領のすべてが没収され、小作人に分配された。
 戦後、行政が「景勝地江戸川ライン」と名うって、当時江戸川堤防上に数多く植えられていた桜(現在はサイクリングコースになっていて存在しない)の風景が美しかったことから、その観光開発をはかり、当山の恵比寿天も「江戸川ライン七福神」に組み入れられた。その後、昭和四十年代から五十年代にかけて、映画『男はつらいよ』主演渥美清扮する「フーテンの寅さん」の全国的人気による帝釈天周辺の観光客の増加とともに「柴又七福神」を巡拝するコースが人気となり、現在はこちらを葛飾区産業経済課と協力してPRしている。
 昭和五十年代になると、「えびす講」は世代交代の困難さから急激に衰退し、高度経済成長の時流に乗って葛飾・江戸川区に流入してきた人々が生前から墓地の永代使用権を取得するようになる。当山は蕎麦店に支えられた祈願中心の寺から、檀家寺への変貌を遂げるとともに、田畑は消え寺の周囲は急激に市街化が進んだ。年号が平成になると山門の直前を北総公団線が横切り、横は巨大なマンションに遮られ、かつての風情溢れる情景はすでにない。
(文責:当山二十六世 清 隆) 
(注)この沿革はまだ未完成です。現在も資料や取材の覚え書き等を検証中であり、今後も細部の改訂を随時行っていく予定です。尚、本堂前の立札にある恵比寿天の由来文は、中興祖源珍の蕎麦供養恵比寿天勧進伝が原文ですが、誤った印象を与える表現となっていますのでご注意下さい。